2011年3月27日日曜日
我家の行動
ここで我家の震災顛末を記したい。地震が発生した3月11日は2階の書斎でネットを確認していた。発生時につけていたラジオから緊急地震速報を知らせる警報が鳴り、直ぐに地震が発生した。山形では震度5強という人生で経験した事が無い揺れに襲われ、おさまるまでの時間がかなり長く感じられた。尋常ではない揺れから危険を感じ、1階に降りて玄関を開放してTVをつけたところで長男君から一報。その直後にNHKから大津波警報が発せられ、長男君に高台への避難を即した。今考えると、実に運の良かったタイミングであった。それから10分ほど経過したところで、高台の避難所に到着した事が長男君から一報され、ひとまず安心する事ができたと同時に生存を確信できた瞬間であった。TVでは地震直後に発生した津波で釜石や仙台空港が壊滅していく様が映し出され、長男君の滞在先の不安が過ってきた。夕方17時に長男君から第二報が寄せられ、アパートに戻るという事を押しとどめ避難所に残る事を諭した後は、通信断絶により2日間は音信不通となった。TVで報道されるのは、陸前高田や女川などのの甚大な被害をこうむった地区ばかり報道され、長男君の滞在先に関する報道は極わずかに過ぎず、状況把握ができずに時間ばかり過ぎてしまった。ネットを駆使して現地情報を収集し、自分なりの判断によって長男君の救出作戦を検討。食料や装備を整えて発生2日後、家族に作戦を説明している最中に、長男君から生存と現地脱出の一報が携帯メールで着信。水没した市内から何とか徒歩で脱出してヒッチハイクで仙台近郊までたどり着いたとの事でした。脱出の一報を受けて、救出の装備も整っていたし、COLTverRも満タン状態になっていたので念の為に装備を積み込んで、仙台に向けて元気ママと出発。約3時間ほどかけて仙台駅前で長男君と再開できた次第である。結局、怪我もなく長男君は生還でき、滞在先もeKワゴンの水没で済んだのは今回の震災規模では超ラッキーと言わざるおえません。千年に一度の大地震は長男君のみならず、次男君にも何がしかの教訓と経験を与えたものと確信します。現地では復興という課題と、福島では原発の問題が山積していますが、被害の小さかった山形県なれど何らかの貢献をしていきたいと思っています。
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